A Home is not a House

July 16, 2017

 

 去年の7月終わりごろ、この記事を書いている時を同じくして「自分って一体何が興味あるんだろうか...」とずっと考えていました。修士設計最初の中間講評ではA3のレジュメを二枚ほど提出しなくてはいけないのだけれど、私は言語化(設計趣旨をわかりやすく説明する能力)のセンスがない。というか今まで逃げてきた。このころはコミュ障も相まって誰にも相談せず、自分の家に閉じこもってテキストを打ちまくるオタニートの毎日。まだ出来上がってもいない「建築」に対してあーなるだろうこーなるだろうと、言語化するのが本当に苦手で、人生で一番つらいプレゼンだったことを記憶している。同期のS我くんより手汗が半端じゃなかった。

 

 いま読み返してみると、最終成果物(湯河原の家)に対して、ちょっと違う部分もあるけど意外と的を得ていたんだなあと不思議な気分になる。結局のところ考えるのはやめて、「出来上がった建築が語ればいいじゃねえか!」と半ば投げやりに、ゴールを定めず、趣味を説明することに全力を注いだ。なんか面白そうなアイデアを見つけるのではなく、一体どうなるかわからないけど、自分の興味をブレイクスルーさせてみる。仮にできなかったらそれまでの奴なのだろうと開き直って、構築的な歴史の文脈を踏まえて自分に大きなハードルを課した。そんな中でも一番意識したのは、提案のスタートラインなんて案外そこらじゅうに転がっているということ。新しいことを、新しい建築を、なんてよく言うけれど、そんなものはほとんどやり尽くされていて、ゼロから生み出すなんて難しい。むしろ重要なのは、私たちが、モダニズムが、教育が、排除してきた“モノ”や“コト”、実はそこに建築の「本質」が眠っていたりする。つまりはモノの見方を変えてみる。それ次第で、アイデアはどうにでもなるんじゃないかなと思う。

 

 迷いながら書いたので結構読みづらいし長い!と思うけど、前述したレジュメの文面を以下に載せておく。ちなみに上図は私がとても好きなイラストでフランソワ・ダルグレの「住居の解剖図」というもの。約60年前に描かれ、修士設計では思考の原点になったものだ。レジュメでも紹介している。

 

 

 

*   *   *

 

 

 

 <はじめに>

 

 物質に込められた思想や意思は一般的に、哲学的なテキストや宣言によって語られると考えられています。しかし饒舌すぎる語り手の言葉はときにひとり歩きし、歪曲や聞き手を啓蒙してしまうことが少なくありません。私たちは他でもない、限りなくクラフトマンであるべきなのだから、現場であれ、ディテールであれ、建築を構成する物事が語る言葉に耳を傾けることはとても大切なことだと思うのです。膨大なパーツの集積が建築であるのならば、それを成り立たせるための原理や工学的な背景が存在しているはずです。切り出された小さな部材がまったく別のそれへと生成変化を繰り返す「過程」そのものに、私は非常に興味があります。

 

 「マダム、お宅がどれくらい重いかご存知ですか?」記念的なものに対する破壊力を含めたバックミンスター・フラーのこの言葉は、恥部を隠すことに莫大な工費をかける私たちの無意識下をウィットに表した言葉です。この一文が掲載された『住居とは家のことではない(A Home is not a House)』(1965)というマニュフェストにおいて、バンハムは『住居の解剖図』というフランソワ・ダルグレのイラストを引用し、「膨大なハードウェアが家の助けをまったく借りずに自立し得る時代に、家はもはやこうした機械的恥部を人々から晦ます以外に一体何をしているのだろうか」と私たちに問いかけます。彼は、優美な生活の中に隠されたこうしたバロック的集合体には、家を実際<省略>し得る可能性を秘めていると論じています。

 

 『住居の解剖図』で描かれた設備機器の集積による家の<省略>は19世紀に起こった産業革命の圧力に抵抗し、家は変わらず家であろうとしました。このことは、住宅の設備機器が技術的革新を遂げる一方で、基本構造としての家に何も変化がなかったことから明らかだといえます。20世紀においてもまた然り、住宅は安定をもった恒久的な場所であろうとし続けたのです。しかし単体の集積によって全体性が<省略>されるという可能性は、しばしば私たちの周囲の、あらゆる場面で起こり得ます。建築や都市の中では、「それ単体でしか意味を持たないモノ」どうしが、ある秩序やリズムをもって集まったとき、まるで大きな脈絡の一部であるかのような、ふるまいをみせることがあります。こうした一見豊かな全体性は、ある単体が意図せず集積することによって生じる、風景の「誤読」であると考えることができるでしょう。本論はこの「誤読」を建築が生成されるまでの過程において限りなく作為的に、住宅の「構成材」によって獲得できるかを検証するものです。

 

 

 


 <構成材をメタクリエーションする>

(メタクリエーション = 物質を組み合わせてさらに複雑な物質を創りだす能力)

 

 具体的にはまず、異常な敷地環境・関連制度の消化・現場施行上の問題・資材や重機の搬出入などの理由で敷地や構法等に掛かる課題を、多少ラディカルに考察していきます。次に、ある一つの課題を解くことに特化した「構成材」を各々設計し、解消した課題に応じた固有名詞を、個別に与えていくというプロセスをとります。つまり、『住居の解剖図』で行われた「家そのものを描かずに、単体の集積によって全体を<省略>する」というしかたを、固有名詞を与えた「構成材」によって獲得することを試みます。ここで、「構成材」に固有名詞を与えるという行為の価値は、解消した課題をある工学的なアイデアによって読み替えているということ、抽象的なモノには常に遠因が存在している手がかりとして、社会的背景を有する一側面を言語表現によって意味付けようとするものです。

 

 

 


 <名付け親からの学び「生態系を混じえた固有名詞」>

 

 このような「固有名詞を与える」という行為を先進的に行っていた人たちがいます。それは他でもない、現場で木材を削る大工さんや単管足場を飛び回る鳶職の方々に他なりません。私たちが暮らしている住宅や建設現場には、実に多くの生態系が活躍していることをご存知でしょうか。とはいっても、それはペットや介助動物のことではないのです。建物外周部の軒下に敷いたコンクリートや玉砂利のことを「犬走り」と呼び、他にも「鴨居」「猫足」「鮟鱇」「牛梁」「蝶つがい」「兎柱」「蟻継ぎ」「海老束」等々…。こうした「生態系を混じえた固有名詞」は、こと建築業界において他に類を見ないほど多く存在していることに気付かされます。その内の多くは大工さんや職人さんたちが現場を繰り返す中で、形状や性質、連想イメージから愛着を込めて名付けたと伝えられています。ここで重要なのは、名詞に生態系が例えられていることではなく、こうした修辞的表現によって名付けられた名詞が、直観的な役割のイメージや尺度感覚を帯びた共有言語となり、かつそれらは構成上重要なコンポジションにあるということを私たちに知らせてくれている、という点にあります。

 

 仮に住居空間であれば僅か二間の寸法内にあらゆるディテールが集約されているというのに、私たちはそこで起きた背景や原理など知らんぷりに生活をしています。例えば、屋根平面から軒先に落ちた雨水を集水器で集めたのち、竪樋を通って下水に流すことは感覚的に分かっていても、流体が竪樋の中をスパイラル状に流れる性質があるために「円筒形」が用いられることはあまり知られていません。これを二次的に解いてしまうと、流速が落ちて動脈硬化を起こし、竪樋が破壊されてしまいます。にも関わらず雨樋には規格が存在していないのです。加えてその竪樋を雨水に晒さないように、軒先から少しセットバックしてクランクした部分を「鮟鱇」と呼びますが、工匠はこれを作るとき各々最高の技術を屈指したそうです。よく伝統的な木造住宅の軒先には素晴らしい造形をもった「飾り鮟鱇」を見かけることがありますよね。つまり建物の生命線ともいえる雨水処理を、身分の象徴として華やかに読み替えているのです。また、魚のアンコウには「吊るし切り」という大量の水を含む料理法があり、吊るされた姿とその性質が似ていることから固有名詞として名付けられたといわれています。


 樋の背景を少し覗くだけで、これだけダラダラと色んなものが見えてくるわけです。これは非常に面白い!と感じたわけで、私はまず、こうした固有名詞をひたすら掻き集めてみることにしました。収集を行っていくなかで気付かされたのは、とりわけ「装飾性」と「地域性」を帯びている物事に限って、生態系が付加されるケースが非常に多いという事実です。構成上重要な箇所がデザインされることに、付加価値をつけて職種や風土を超えた共有言語となっていることは、今日の建設現場に技術が受け継がれ続けている根底であるかもしれません。本論は、名付け親である「現場」を学びとしてその固有名詞に由来する背景や原理を探り、「生態系を混じえた固有名詞」から得た知恵を住宅設計へ展開・応用していこうと思います。

 

 

 


 <住宅への展開(検討中)>

 

 プロセス(仮)はまず、(ⅰ)固有名詞を与えた仮想の抽象モデル → (ⅱ)各々「構成材」を噛み合わせたプロトタイプモデル → (ⅲ)地域性やプログラムによって調整された住宅モデルへと、起こり得る問題解決の質を「材―抽象」から「周辺環境や市場―具体」を常に行き来しながら相対化させていくことを試みます。それぞれある社会的一側面を有する「構成材」が独立した合理性を持ちながらも、それらは同時に何も関係性を持っていない、という異常事態を作為的につくり出し、ズレを許容したまま住居へ次第に噛み合っていく、というしかたをとります。言語が宙吊りになり、「明快で直観的な豊かさはあるのに建築に対しては説明の仕様がない」という異様な身体感覚をもつこの住宅は、物質と建築が語る自然言語にしか興味の無い、設計者である私によるストラグルの成果であり試論です。

 

 

 

 

(※本提出から半年ぐらい前、試作段階でのテキストなので思考が変わった部分もあります)

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